いつものそこらのどっか

音楽に花束に明日の夢

Nabarvené ptáče

⚠️ネタバレしかしません。

 

異端の鳥を見てきました。スラ文専攻の友人と露文に片足突っ込んだ自分とで見に行ったので、インタースラーヴィクがやはり第一の興味対象。自分はセルビアクロアチア語、友人はチェコ語を齧っているのもあって語幹をいろいろと見つけることができて面白かった。ドイツ語はHaltしかわからず、涙。

 

映画そのものとしては、こんなに長い必要あるかよ!という印象もある。まあでもその長さに必要な忍耐というのが、主人公の忍耐を表しているんですが…2度目は絶対に飛ばし飛ばし見てしまうだろうな。

 

ざっくり言えば行く先々で主人公が部外者としてボコられる話。白く塗った小鳥を同じ種の群れに放すと群れの鳥に攻撃されて死ぬ描写があるので、原題(の英訳ver)はThe painted birdで納得。WW2中の東欧の農村が正直中世レベルの文明発達度で震えてしまった。最初に行き着いた村の魔女に言われた、行く先々で死(смерть)を招くという予言は当たるわけですが、これも結局は社会構造が問題であって…アハハ。風来坊に憧憬を抱くような描写がいかにファンタジーであるか。風の又三郎を思い出さずにはいられなかった。

 

主人公を理不尽にボコる大人達が性に溺れているのを常に目にしてきた主人公は常に暴力についても自分のものにはしませんでしたが、自分の性の目覚めとともに自分に向けられていた暴力性を自分のものとして他者に発露するようになる。ここの明確な描き方が気持ちよかった。そしてこの時自我が芽生え、自らへの侮辱に自覚的に怒りを覚えるようになってもいます。

 

ホロコーストや収容所から息子を遠ざけるために両親は主人公を他の家に預けたのだ、ということが最後に明かされるラストの描き方もよかった。一貫して自分の名前を名乗らない主人公は父親に再会しても何故自分をこんな目に合わせたのかと反抗的な態度を取り、父に「自分の名前も忘れたのか」と言われます。しかしラストに父の腕に刺青された収容者番号を見て、自分の名前を初めて曇った窓に指で書き記す…父もまた同様に異端として同じ人間に迫害された経験があると知って、名が回復されるというこの構造。結局この映画で最も問いかけられているのは、人間が他者に感じる差異と暴力性よりも個として存在すること、な気がしてならない。劇中で人間が名前で呼ばれることはほとんどないが、主人公と関わった人間たちの名前は章のタイトルになっている。主人公の名前は最後まで明かされず、劇中では属性で呼ばれる期→孤児院で番号で呼ばれる期→父との再会という変遷がある。名の自認とは愛の自認であり、名を呼ぶことは社会の一員として承認すること、なんだなあ…。

 

さかしらに少し言ったけれど、襲撃した村の女を裸にして、自らも裸になってセックスしながら馬に乗っていたコサックが一番印象的だった。