いつものそこらのどっか

音楽に花束に明日の夢

閑話休題

もう毎日更新を挫折しそうなので読んだ本の話をします。

 

サマセット・モーム『太平洋』『雨・赤毛』『月と六ペンス』『読書案内』(新潮文庫)

アジア贔屓なので、太平洋というタイトルに惹かれて買ってみたら大当たりでした。下手なロマン主義が挟まることなく、シニカルな目線で明確なオチのあるリアリズムに漸近した物語を書くので読みやすい。南洋ものは舞台が南洋なので無条件に好き。いや、まあ完成度の高さや、冷静な目線で現実を見据えながらもどうしようも無い人間の非合理的な(感情的な)振る舞いを皮肉っぽく描くのではなく、それはそれで人間なのだとありのままに見せ、とはいえそれを肯定するのでもないところに多大な共感を覚えた。小説なんて共感で読むものではないが、共感で読めてしまう文章が自分のバイブルとなっていくのだろう。(聖書が意識的に有する宗教性って感情的な共鳴を根本から喚起することを意図するものだし、現義からしてそれはそうなのだが)月と六ペンスはその点ちょっと狙いすぎている。評価の感情が挟まっている。まあ、そのような人間的なアクがあるからこそ名作と呼ばれる程に人気を得るのだろうが…

あ、読書案内は本当につまらなかった。これは単に私の西洋への興味のなさの問題です。

 

J・D・サリンジャーフラニーとゾーイー』(新潮文庫)

いやあ若い。フラニーもゾーイーも若々しくてギラギラしていて自分の枯れ木立のような自我が悲しくなるのだけれども、しかし自分は丁度2人の間の年齢ということもあり、フラニー的な他人のエゴへの潔癖性と、それを全てありのままとして『バガヴァッド・ギーター』(岩波文庫)でクリシュナがアルジュナに「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。」と言ったように認めていくゾーイーの諦観的寛容とが心の余裕に呼応して変動することに気付き、自分の狭量さと諦観によって場を離れようとする浅ましいプライドの高さに悲しくなる本でした。

 

ジョルジュ・バタイユ『宗教の理論』(ちくま学術文庫)

文体は読みやすくて目はサラサラと滑らずに動くくせに何を言っているのかは立ち止まって解釈しないとわからない、ひっかけのような文章。まあ言ってることは何かの宗教の教義哲学を初級に毛が生えたくらいまで勉強したらなんとなくわかると思います。しかしポスト構造主義周辺のおフランスの方々の書く文章やその訳ってやつは本当に読みづらくてかなわんね!

 

宇佐美森吉・宇佐美多佳子『知っておきたいロシア文学』(明治書院)

露文の授業で出てくる大抵の露文の名作について、各作品の簡潔なあらすじと文学的意義について2〜3ページでまとめた本。通読すれば露文の人間と話す時滅茶苦茶知ったかぶって話広げることが出来るので、露文に片想いしている相手がいる人間か、露文志望でちょっとイキリたい学部1〜2年の学生は読むといいと思います。読まず嫌いしていたチェーホフを読むようになりました。多分トゥルゲーネフは一生読まないけど。

 

ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』(新潮文庫)

英語の勉強をしようと思って友人たちとダブリナーズをちまちま訳す勉強会をやっていたのだが、どう考えてもテクスト選びを間違えている。日本語訳で取り敢えず通読したが、ジョイス読解の指南本的なものを読んだら全く構造やメタファー等に気づけず、絶対に文学研究には手を出せないなと思った。というかまず英語が難しい。日英露泰越の中で一番英語が苦手なのでそもそも…という話はありますけれども。

パブでポーヒョン!という音を立てスタウトの栓を開けてがぶ飲みするのは一度やってみたい。貧弱な感想で申し訳ない。なんとなくダブリンの気怠げな感じが性に合いそうでしかしあの時代にあそこに住んでいたらジョイスと同じように出奔しそうで…というのは感じたのでまあ麻痺については感覚的に理解したのでしょう(ということにします)。

 

名越健郎『メコンのほとりで:裏面史に生きた人々』(中公新書)

紀行エッセイ的な文章ってまあ面白くないのですけど、生活風俗と時代の空気の理解のためには最も読まなければいけないジャンルでもあります。まあ基本的に作者の感情が挟まっているのが邪魔で仕方ないのですが、それをもってあまりあるラオスの日本大使夫婦殺害事件のきな臭さ。ラオス 杉江 で検索すれば出てきます。同じく中公新書から出ている『ラオス インドシナ緩衝国家の肖像』でも辻失踪事件とともに触れられていますが、この件について2000年以降触れた研究者やジャーナリスト等は居ない気がする。そもそもラオスについて言及する日本人コミュニティがとても小さいのですが…。外務省が殉職扱いしたしなかったの問題はまあ日本政府ってそんなもんだよなという呆れと諦めとがありますが、向こうの政府側の動きのきな臭さがどうも気になる。まあもう今から新事実が発覚するようなこともないでしょうけど。

 

桜井由躬雄『ハノイの憂鬱』(めこん)

東大東洋史から京大東南アジア研究所へ行った時の地域研究上がりの学者に感じた劣等感にメチャメチャにやられた。地域研究、進振り点高すぎるのだが…。各章の頭に挿入される金雲翹と各章の内容が絶妙に共鳴するシャレオな構成に脱帽。やはり一番好きな研究者です。これになりたい。そしてこの人のベトナムについてのエッセイはやはり嫌なところがない。自分とベトナムについて好きな点が似ているのだろうな。この人が亡くなる前に入学して師事を受けたかった…。

 

岡林茱萸『ロシアの詩を読む』(未知谷)

アクメイズムより象徴主義の方が好きだけれども、アンネンスキーなんかはてんで興味を持てなかった。ギッピウスはライフスタイルが当時としてはいかれていて、メッチャ女性ジェンダーを苛烈に自らの身体で表現しつつ男装を好み、夫のメレシュコフスキーとは一切性交渉をせず、宗教的にも独創的な思想性を持っていく…そして絶望と表裏一体の憧れや希望を絶叫する作風…とここまで肯定的に書いているものの、読んでいて疲れるので満点の好きではないです。これはマヤコフスキーも同じ。マヤコフスキーの言語感覚に惚れ込んではいるけれど(例えば、「背骨のフルート」)彼の常に握り拳を振り回してビンビンと筋肉を動かすような生き様については常に思惟を巡らすことは私にはできない。私が好きなのはアファナーシー・フェートだとかアルセーニー・タルコフスキーだとかパウストーフスキーだとか…最初に戻って南洋ものを書いているときのモームのような温度感が前提として流れているものが好きですね。うまく頭とお尻が繋がったので終わり。この記事が今までのブログの中で一番長いなんてね。