いつものそこらのどっか

音楽に花束に明日の夢

12月

 うっかり先月読書録を書いたのが個人的にも良い振り返りになったので12月の読書録も性懲りなく更新します。

『世界短編名作選 ソビエト(新日本出版社

ルイトヘウの「ハバロフスクへ飛ぶ」とパウストフスキーの「雪」が名作。他は共産主義の香りが強すぎるきらいがある。

ルイトヘウはとてもいい。「ハバロフスクへ飛ぶ」はチュクチの女の子がソビエトの民族政策で援助をもらってチュクチ初の大学進学者となる話。チュクチの自然に親しむ素朴な女の子がそのままの好奇心で初めての飛行機に乗り、土地が地図のように見えることに感動し、周りの人々と交流する。これをソビエトの政策賛美のように冷めた目で読むことも可能ではあるが、ルイトヘウはそんなことを考えて書いてはいないと思う。同作者の『クジラが消えた日』も良い。

パウストフスキーもとても良い。自然描写が巧みな作家で、自然の美しさと厳然性をそのまま描く中庸さが人間描写にも表れていて、読んでいてとても心地が良い。個人的には宮沢賢治に少し似ていると思う。

『森のロシア 野のロシア』太田正一

パウストフスキーに出会ったきっかけの本。メシチョーラの森に一度は行ってみたい。今行くとしたらどの辺りが良いのだろうか。リャザンかな。

『仏教から読む古典文学』末木文美士

源氏物語において、王権と仏教が両端となった軸があるよねみたいな考察周辺が面白かった。現実の権力世界に耽溺しきることもできないけど完全に世を捨ててしまうこともできない貴族たちの煮え切らなさ。終始煮え切らないのが源氏物語の醍醐味と言われればそれまでだけど。

源氏物語の結婚』工藤重矩

勧められたから読んだけどそもそもそんなに源氏物語の結婚描写に興味なかった。まあでもあの時代の婚姻制度とか婚姻への価値観がわかると源氏物語の話の運びは全て必然的で〜みたいな考察に一読の価値はあった。しかしその考察に至るまでの制度の解説と実証と従来の論への反論が初学者にはちょっと辛い。

源氏物語と東アジア世界』 河添房江

光源氏を序盤で人相見した人は実は韓半島じゃなくて渤海国から来たという考察(というかそれがもう確実っぽいけど)は学びになったけど他全然覚えてない。源氏物語にそもそも興味がなかったのに無理やり読書しているのが伺える記憶のなさ。

『ヴェトナム変化する医療と儀礼板垣明美

個人的にはめっちゃ面白いしデータも豊富でよかった。今も等が求めるよりも社会主義的な相互扶助システムを構築している村がある話はベトナム自体に興味がなくても面白いかもしれない。他は興味ないと厳しい。

春琴抄』『卍』『蓼食う虫』谷崎潤一郎

艶かしさとかそういう湿度のある話が苦手なので喰わず嫌いしていたが、思っていたより何倍も面白かった。谷崎批評でよく言われる完璧主義や感情の制御への挫折というテーマはあまり響いてこなくて、それよりも語りの手法の巧みさの方に引き込まれた。蓼食う虫を読んでから、瀬戸内海に行きたくてたまらなくなっている。あと着物も着たくなった。『卍』『蓼食う虫』に描かれる人間の能動性のなさは國分功一郎の『中動態の世界』を思い出したけれど、この本はあまり好きではないのであまり広げないでおきます。

源氏物語紫式部

何を血迷ったか原文で読破しようと試みています。全然先が見えません。終わったらアーサー・ウェイリー訳で読んでみたいと思う。

『菅原伝授手習鑑』竹田出雲とか

原文で読んでいる。最初は文体に面食らったけれども、慣れればその巧妙な口上の気持ちよさにサクサク読める代物だった。忠義と現実に引き裂かれて死んでいく登場人物たちに同情し、最後に悪者を清算しスッキリするわかりやすい江戸エンタメ。しかしなんだかこの文体読み覚えがあるぞと思ったら高校で覚えさせられた「桜は散るに嘆き、月は限りありて入佐山」(『好色一代男井原西鶴)だった。今思い返しても意味わからん高校だったな。

北原白秋詩集』安藤元雄

邪宗門は嫌い、東京景物詩は好き。『白秋詩抄』と『東京景物詩及其他』は買った。

『詩人・菅原道真大岡信

漢詩は「誰が何を思ったか」で和歌は「感情とはどのようなものか」という違いがあって、日本の詩は其の欠落した叙述性を漢詩的なものに頼りつつしかしそこから情感のみをうつすことで成立している、みたいな話。だから『王朝漢詩選』はつまらないのかと納得。

『詩を読む人のために』三好達治

強い感銘は受けなかったけど、読むときのスタンスで意識することはかなり増えた。三好達治の詩自体があまり好きではないからかな…。

『ロシア祈りの大地』津久井定雄, 有宗昌子

めっちゃ面白いけど興味なかったら歯牙にもかからない。ロシアの中で正教がいかに政権と絡み、それがいかに日常生活に表出しているかを多角的に概観する。けれどもただの概説書ではなくて文化人類学的なアプローチもなされている。

雨月物語上田秋成

古典原文チャレンジ其の3。正直一番読みやすいけど、読んだところでだからなんだよって感想…。江戸だねえとしか。

智恵子抄高村光太郎

年末に一気読みした。

今年読んだものの中で一番良かったかもしれない。自分の心の向かう方向と、高村光太郎の智恵子への愛のあり方が肉薄しすぎていて息がつまる思いだった。

 

何故か突然詩に傾倒して俗なものを避け続けた12月でした。良いお年を。

(泣)

Minh Khaiブックストアから返信が来た。辞書の送料は1,500,000ドンもしくは68ドル。覚悟はしていたがなかなかの送料。

しかしたった5万語収録の越日辞書が3万近くすることを考えれば安い買い物か。

 

とくにこれ以上言いたいこともないが、書き始めてしまった。

 

最近掲示板で現高3の人間と知り合ってメールで文通的なやりとりをしている。バイトでは現高2の人間を担当している。

ゆはここやふなちゃんと同い年、北川さんや川名さんと同い年と考えると彼女らの若さに驚かされる。芸能人は一般人と同じ時を歩まないのだなとしみじみ思う。いや、まあ、愛生ちゃんと里愛がほぼ同じだけの時間を歩んできたということも摩訶不思議なのだけども…。

 

すっかり文章を書けなくなってしまった。最近は特段外界について何かを言語化したいほど感じることがない。不満足な時に色々と戯論が湧くのでしょうね。最近はそこそこ満たされた生活を送っています。

 

 

có lẽ

恐らく35万語の辞書を、35万ドンで、恐らく日本に送ってくれるであろうサイトにて、恐らく注文した。恐らく3.5kgあるので、恐らく送料が高い。

 

ベトナムの通販サイト(Minh khai bookstore)でしか目当ての越英辞書を買えなかったので色々頑張った。頑張ったよ…。35万語収録、つよすぎる。現在日本で出版されている越日辞書で最も収録語数が多い詳解ベトナム語辞典はたったの5.5万語しか収録していない。嘆かわし。しかもこれは実はタイ越辞書のタイ語部分を日本語訳しただけだとか何とか…。

 

とはいえラオ日辞典はてっちゃんネットという有志が作成したものしか存在せず、外大ラオス語科の学生は入学時に教員がラオスに発注するラオ英辞典を使うというのだから驚きである。………がんばれ。

 

 

ʅ(◞‿◟)ʃ

一日に書ける文章の量というのは決まっていて、何か長文を翻訳したりレポートを書いたり電子文通に返信したりするともうさっぱりブログが書けなくなってしまう。ばたんきゅ〜。

 

Adobe Flash Playerが2020/12/31をもってサービスを終了する。イカゾーの幼少期はFlashゲームによって形作られたと言っても過言ではない。3歳からずっとFlashゲームで遊び、MMORPGの時代に乗り遅れ、今もまだ逆転裁判にハマっている。今は昔、Spikeが最新のDSソフトを自社サイトに公開し、チキンラーメンミニゲームが存在し、フジテレビで地引き網が弾けた頃、イカゾーの物心がつき始めたのです。Spikeなら侍道天堂独太、爆走デコトラ伝説、喧嘩番長忍道が好きだったし、都道府県大戦は絶対にセオリーを無視して青森県から始めたし、東京無限大帝國の摩訶不思議な世界観の大ファンだった。トントンダービーは1〜3まで全部やり込んで大豚主になった。ぱんぞう屋は全ゲームクリアしたしデジコミも全て覚えている。小学館のサイトならくるくるエリンが好きだったし、NHKならおこめシリーズが好きだったし、ポケモンは1作品も遊んだことがないけどYahoo!きっずのポケモンガーデンはやり込んでいた。Splaxにも入り浸っていたし、ピクトさんシリーズは更新されたら必ずすぐにクリアした。しかし、こんなにFlashゲームが大好きだったのに、中学受験直前の1月にメイプルストーリーにハマって毎日6時間遊んだのを機に、離れてしまった。

 

Flashをブラウザ内で仮想的に動かす拡張機能があるとかないとか。exeファイルでオフラインに落とすソフトがあるとかないとか。好きだった作品は取り敢えず保存しようと思う。しかしあの頃の荒削りな、雑コラ的な、「おもしろ動画倉庫」的なカルチャーシーンはもうどこにも見つけられない。素人が何かを作って持ち寄るプラットフォームは全て何かを怖がって気取っている。やっぱり平成は生ぬるいダサい時代で、でもその生ぬるさが人間らしくて好きだったんだなあ。1995〜2010年あたりのファッション、何があった?ってくらいダサくてチープで何も上手くいってなくって、憧れとともに懐古されることは殆ど無いけれど、でもどこか安心感がある時代だった(と思うのは私が生まれたのがその時代だからか。おしまい)

Nabarvené ptáče

⚠️ネタバレしかしません。

 

異端の鳥を見てきました。スラ文専攻の友人と露文に片足突っ込んだ自分とで見に行ったので、インタースラーヴィクがやはり第一の興味対象。自分はセルビアクロアチア語、友人はチェコ語を齧っているのもあって語幹をいろいろと見つけることができて面白かった。ドイツ語はHaltしかわからず、涙。

 

映画そのものとしては、こんなに長い必要あるかよ!という印象もある。まあでもその長さに必要な忍耐というのが、主人公の忍耐を表しているんですが…2度目は絶対に飛ばし飛ばし見てしまうだろうな。

 

ざっくり言えば行く先々で主人公が部外者としてボコられる話。白く塗った小鳥を同じ種の群れに放すと群れの鳥に攻撃されて死ぬ描写があるので、原題(の英訳ver)はThe painted birdで納得。WW2中の東欧の農村が正直中世レベルの文明発達度で震えてしまった。最初に行き着いた村の魔女に言われた、行く先々で死(смерть)を招くという予言は当たるわけですが、これも結局は社会構造が問題であって…アハハ。風来坊に憧憬を抱くような描写がいかにファンタジーであるか。風の又三郎を思い出さずにはいられなかった。

 

主人公を理不尽にボコる大人達が性に溺れているのを常に目にしてきた主人公は常に暴力についても自分のものにはしませんでしたが、自分の性の目覚めとともに自分に向けられていた暴力性を自分のものとして他者に発露するようになる。ここの明確な描き方が気持ちよかった。そしてこの時自我が芽生え、自らへの侮辱に自覚的に怒りを覚えるようになってもいます。

 

ホロコーストや収容所から息子を遠ざけるために両親は主人公を他の家に預けたのだ、ということが最後に明かされるラストの描き方もよかった。一貫して自分の名前を名乗らない主人公は父親に再会しても何故自分をこんな目に合わせたのかと反抗的な態度を取り、父に「自分の名前も忘れたのか」と言われます。しかしラストに父の腕に刺青された収容者番号を見て、自分の名前を初めて曇った窓に指で書き記す…父もまた同様に異端として同じ人間に迫害された経験があると知って、名が回復されるというこの構造。結局この映画で最も問いかけられているのは、人間が他者に感じる差異と暴力性よりも個として存在すること、な気がしてならない。劇中で人間が名前で呼ばれることはほとんどないが、主人公と関わった人間たちの名前は章のタイトルになっている。主人公の名前は最後まで明かされず、劇中では属性で呼ばれる期→孤児院で番号で呼ばれる期→父との再会という変遷がある。名の自認とは愛の自認であり、名を呼ぶことは社会の一員として承認すること、なんだなあ…。

 

さかしらに少し言ったけれど、襲撃した村の女を裸にして、自らも裸になってセックスしながら馬に乗っていたコサックが一番印象的だった。

閑話休題

もう毎日更新を挫折しそうなので読んだ本の話をします。

 

サマセット・モーム『太平洋』『雨・赤毛』『月と六ペンス』『読書案内』(新潮文庫)

アジア贔屓なので、太平洋というタイトルに惹かれて買ってみたら大当たりでした。下手なロマン主義が挟まることなく、シニカルな目線で明確なオチのあるリアリズムに漸近した物語を書くので読みやすい。南洋ものは舞台が南洋なので無条件に好き。いや、まあ完成度の高さや、冷静な目線で現実を見据えながらもどうしようも無い人間の非合理的な(感情的な)振る舞いを皮肉っぽく描くのではなく、それはそれで人間なのだとありのままに見せ、とはいえそれを肯定するのでもないところに多大な共感を覚えた。小説なんて共感で読むものではないが、共感で読めてしまう文章が自分のバイブルとなっていくのだろう。(聖書が意識的に有する宗教性って感情的な共鳴を根本から喚起することを意図するものだし、現義からしてそれはそうなのだが)月と六ペンスはその点ちょっと狙いすぎている。評価の感情が挟まっている。まあ、そのような人間的なアクがあるからこそ名作と呼ばれる程に人気を得るのだろうが…

あ、読書案内は本当につまらなかった。これは単に私の西洋への興味のなさの問題です。

 

J・D・サリンジャーフラニーとゾーイー』(新潮文庫)

いやあ若い。フラニーもゾーイーも若々しくてギラギラしていて自分の枯れ木立のような自我が悲しくなるのだけれども、しかし自分は丁度2人の間の年齢ということもあり、フラニー的な他人のエゴへの潔癖性と、それを全てありのままとして『バガヴァッド・ギーター』(岩波文庫)でクリシュナがアルジュナに「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。」と言ったように認めていくゾーイーの諦観的寛容とが心の余裕に呼応して変動することに気付き、自分の狭量さと諦観によって場を離れようとする浅ましいプライドの高さに悲しくなる本でした。

 

ジョルジュ・バタイユ『宗教の理論』(ちくま学術文庫)

文体は読みやすくて目はサラサラと滑らずに動くくせに何を言っているのかは立ち止まって解釈しないとわからない、ひっかけのような文章。まあ言ってることは何かの宗教の教義哲学を初級に毛が生えたくらいまで勉強したらなんとなくわかると思います。しかしポスト構造主義周辺のおフランスの方々の書く文章やその訳ってやつは本当に読みづらくてかなわんね!

 

宇佐美森吉・宇佐美多佳子『知っておきたいロシア文学』(明治書院)

露文の授業で出てくる大抵の露文の名作について、各作品の簡潔なあらすじと文学的意義について2〜3ページでまとめた本。通読すれば露文の人間と話す時滅茶苦茶知ったかぶって話広げることが出来るので、露文に片想いしている相手がいる人間か、露文志望でちょっとイキリたい学部1〜2年の学生は読むといいと思います。読まず嫌いしていたチェーホフを読むようになりました。多分トゥルゲーネフは一生読まないけど。

 

ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』(新潮文庫)

英語の勉強をしようと思って友人たちとダブリナーズをちまちま訳す勉強会をやっていたのだが、どう考えてもテクスト選びを間違えている。日本語訳で取り敢えず通読したが、ジョイス読解の指南本的なものを読んだら全く構造やメタファー等に気づけず、絶対に文学研究には手を出せないなと思った。というかまず英語が難しい。日英露泰越の中で一番英語が苦手なのでそもそも…という話はありますけれども。

パブでポーヒョン!という音を立てスタウトの栓を開けてがぶ飲みするのは一度やってみたい。貧弱な感想で申し訳ない。なんとなくダブリンの気怠げな感じが性に合いそうでしかしあの時代にあそこに住んでいたらジョイスと同じように出奔しそうで…というのは感じたのでまあ麻痺については感覚的に理解したのでしょう(ということにします)。

 

名越健郎『メコンのほとりで:裏面史に生きた人々』(中公新書)

紀行エッセイ的な文章ってまあ面白くないのですけど、生活風俗と時代の空気の理解のためには最も読まなければいけないジャンルでもあります。まあ基本的に作者の感情が挟まっているのが邪魔で仕方ないのですが、それをもってあまりあるラオスの日本大使夫婦殺害事件のきな臭さ。ラオス 杉江 で検索すれば出てきます。同じく中公新書から出ている『ラオス インドシナ緩衝国家の肖像』でも辻失踪事件とともに触れられていますが、この件について2000年以降触れた研究者やジャーナリスト等は居ない気がする。そもそもラオスについて言及する日本人コミュニティがとても小さいのですが…。外務省が殉職扱いしたしなかったの問題はまあ日本政府ってそんなもんだよなという呆れと諦めとがありますが、向こうの政府側の動きのきな臭さがどうも気になる。まあもう今から新事実が発覚するようなこともないでしょうけど。

 

桜井由躬雄『ハノイの憂鬱』(めこん)

東大東洋史から京大東南アジア研究所へ行った時の地域研究上がりの学者に感じた劣等感にメチャメチャにやられた。地域研究、進振り点高すぎるのだが…。各章の頭に挿入される金雲翹と各章の内容が絶妙に共鳴するシャレオな構成に脱帽。やはり一番好きな研究者です。これになりたい。そしてこの人のベトナムについてのエッセイはやはり嫌なところがない。自分とベトナムについて好きな点が似ているのだろうな。この人が亡くなる前に入学して師事を受けたかった…。

 

岡林茱萸『ロシアの詩を読む』(未知谷)

アクメイズムより象徴主義の方が好きだけれども、アンネンスキーなんかはてんで興味を持てなかった。ギッピウスはライフスタイルが当時としてはいかれていて、メッチャ女性ジェンダーを苛烈に自らの身体で表現しつつ男装を好み、夫のメレシュコフスキーとは一切性交渉をせず、宗教的にも独創的な思想性を持っていく…そして絶望と表裏一体の憧れや希望を絶叫する作風…とここまで肯定的に書いているものの、読んでいて疲れるので満点の好きではないです。これはマヤコフスキーも同じ。マヤコフスキーの言語感覚に惚れ込んではいるけれど(例えば、「背骨のフルート」)彼の常に握り拳を振り回してビンビンと筋肉を動かすような生き様については常に思惟を巡らすことは私にはできない。私が好きなのはアファナーシー・フェートだとかアルセーニー・タルコフスキーだとかパウストーフスキーだとか…最初に戻って南洋ものを書いているときのモームのような温度感が前提として流れているものが好きですね。うまく頭とお尻が繋がったので終わり。この記事が今までのブログの中で一番長いなんてね。

代替

群馬県みどり市大間々要害山中にルネ・ザパタ著『ロシア・ソヴィエト哲学史』(文庫クセジュ)を落としたのは私です。

あと数段で登頂というところで気を抜いて腕を振ったのがいけなかった。粛々と登るべきだったな。

落とした瞬間はやべえこりゃ取りに行けないぞと焦りはしたが、まあ数秒もすればそんなに高価な本でも無いしネタにもなるしまあいいか、今日中に読み切ろうと思っていたからそこが残念、くらいにすぐ未練が雲散霧消してしまった自分の合理主義に感性の方が少しびびっている。本そのものへの愛着なんてさっぱりなかったんですね。わりかし大切に愛おしく思っていたつもりだったが、私が大切にしていたのは書かれている情報だけであった。

 

大抵の事物というやつは目的に従属していて、目的を達成可能であればなんでも代替が効いてしまう…というのは資本主義批判とか労働批判においてよく言われることです。それは労働者にも言えることであって、個性に唯一無二の価値のある労働者など殆ど居ないわけです。ここで疑問が浮上するのが芸能という職業。芸能においては、労働者がなんらかの目的が意図された作業的営為を行わずともその存在に価値が付与され、金銭的価値が高まります。

 

「実存は本質に先立つ」とかいうのは本質の価値が高くなりすぎて実存が疎外されてしまった社会へのアンチテーゼとしての提言なだけであって、実存が本質である在り方ができればそれが最も良いわけです。(バタイユが動物について『水の中に水があるように生きる』と言うように、また禅宗などで日々の所作に厳しい作法がありその一つ一つの運動こそが悟りであると頓悟するように、そのままの状態が価値あるものになるという特異かつ完全な状態はまた聖性をも持ち合わせるのですが、これはまた芸能と宗教の近しい間柄の中で考察できるかもしれない)

 

取り止めもなく、段落構造を推敲もせずここまで書いてきて何が言いたいのかと言うと、自分の思うアイドルの面白みとは人間の個性の面白さそのものを不躾にも勝手に腑分けして味わうことができるところにあると思う、ということです。それが労働として社会的にも承認されているので。精神科医やカウンセラーにならずとも勝手に他人を解釈し語ることがそこそこ許される世界は恐らく芸能人のファンコミュニティにしか無いですよ。

 

下手に思考回路が理解できてしまう生育環境や年齢が近いアイドルには恐怖心や警戒心や対抗心を抱いてしまう愚かな性格も持ち合わせているので、やはり自分は北研出身メンバーを好きにならざるを得なかったんだな…という自己分析でした。彼女らの同期がこの愚かさを乗り越えて好きなのは、単純接触効果の恩恵が大いにあると思う。