いつものそこらのどっか

音楽に花束に明日の夢

代替

群馬県みどり市大間々要害山中にルネ・ザパタ著『ロシア・ソヴィエト哲学史』(文庫クセジュ)を落としたのは私です。

あと数段で登頂というところで気を抜いて腕を振ったのがいけなかった。粛々と登るべきだったな。

落とした瞬間はやべえこりゃ取りに行けないぞと焦りはしたが、まあ数秒もすればそんなに高価な本でも無いしネタにもなるしまあいいか、今日中に読み切ろうと思っていたからそこが残念、くらいにすぐ未練が雲散霧消してしまった自分の合理主義に感性の方が少しびびっている。本そのものへの愛着なんてさっぱりなかったんですね。わりかし大切に愛おしく思っていたつもりだったが、私が大切にしていたのは書かれている情報だけであった。

 

大抵の事物というやつは目的に従属していて、目的を達成可能であればなんでも代替が効いてしまう…というのは資本主義批判とか労働批判においてよく言われることです。それは労働者にも言えることであって、個性に唯一無二の価値のある労働者など殆ど居ないわけです。ここで疑問が浮上するのが芸能という職業。芸能においては、労働者がなんらかの目的が意図された作業的営為を行わずともその存在に価値が付与され、金銭的価値が高まります。

 

「実存は本質に先立つ」とかいうのは本質の価値が高くなりすぎて実存が疎外されてしまった社会へのアンチテーゼとしての提言なだけであって、実存が本質である在り方ができればそれが最も良いわけです。(バタイユが動物について『水の中に水があるように生きる』と言うように、また禅宗などで日々の所作に厳しい作法がありその一つ一つの運動こそが悟りであると頓悟するように、そのままの状態が価値あるものになるという特異かつ完全な状態はまた聖性をも持ち合わせるのですが、これはまた芸能と宗教の近しい間柄の中で考察できるかもしれない)

 

取り止めもなく、段落構造を推敲もせずここまで書いてきて何が言いたいのかと言うと、自分の思うアイドルの面白みとは人間の個性の面白さそのものを不躾にも勝手に腑分けして味わうことができるところにあると思う、ということです。それが労働として社会的にも承認されているので。精神科医やカウンセラーにならずとも勝手に他人を解釈し語ることがそこそこ許される世界は恐らく芸能人のファンコミュニティにしか無いですよ。

 

下手に思考回路が理解できてしまう生育環境や年齢が近いアイドルには恐怖心や警戒心や対抗心を抱いてしまう愚かな性格も持ち合わせているので、やはり自分は北研出身メンバーを好きにならざるを得なかったんだな…という自己分析でした。彼女らの同期がこの愚かさを乗り越えて好きなのは、単純接触効果の恩恵が大いにあると思う。